multipleminorityidentities’s blog

気づけばアラフォーになっていたギフテッドなゲイの日常

他人に許されないと存在できない人

なぜ他者からの承認がないと人間は心が折れてしまうのか考えてみた。こういうことなんじゃないか。

  • 他人に判断をアウトソース
  • 他人が期待する基準の中に留まりその範囲で動こうとする
  • 自分では自信がない、または基準を満たせない
  • 気休めでも「ここまでで許してやる」という合格点を与えてほしい
  • でも自分では気休めでもその決定を下せない
  • 評価の対象物と自分の人格を混同していたり、評価が自分の全てと思っている
  • 他人の評価なので自分の希望どおりにならないこともあって一喜一憂する

承認って死への不安と表裏一体なわけで、当然安心を求めて承認欲求をもつんだろうけど。

ちなみに自分は今、仕事のある面においては他人の行為を承認するか自分が判断する立場なので、他人が答えを持っていてドキドキということはない。でも間違ったことや無理解なことを言われたりすると面倒になったり苛立ったりということはある。*1他人に左右されず自分で自分に承認を与えられるかが心が折れない鍵かも。

*1:そういうめんどくささという意味では承認欲求が満たされないことがあるけど、他人の評価が自分の全てにはならないので情緒的にはひとまず安定はしてると思う。

儒教の祟り

日本がなんだかんだ言って後進性を断ち切れないでいるのは、年功序列の考え方がいまだにあるからではないか。今までは長く携わってさえいれば、見合った能力がなくても携わった時間と能力は比例すると勝手に思ってもらえて集団のトップに立つことができた。でもこれではトップダウン型のアップデートがうまく機能しない。そして能力主義に切り替えますと言われた時、トップにいる凡人はそのままでは既得権益を失うのでお気持ちアラートが発動して、能力のある人が「競争」に参入できないよう画策する。*1たぶん現代日本儒教の悪いところがボディーブロー状態でじわじわ効いているところなんだと思う。

何かの分野で後進性を断ち切ることに成功した国って、才能のある人にリソースや権力を渡してその才能を発揮できるようにしたにすぎない。能力のない凡人がリソースや権力を持っていても、凡人が生み出すのは日常であって変革ではない。ちんたら日常を紡ぎ出している間に世の中はどんどん先に行ってしまう。そして既得権はそれを一定レベルを超えて行使しようとすればするほど行使できる場所がなくなっていく。でも凡人はそれが分からない。それが分からないのが凡人だし。

*1:そういうところだけトップダウン

何かを頼まれているけど何を頼まれているのか分からない

何が言いたいのか分からない人ってのがいる。普段自分が接する人は、理路整然としてなくても話を聞いているうちに「こんなことが言いたいのかな」と要点がだんだん分かってくる(相手の言いたいことが妥当かはまた別)。でも最近頼まれごとをしている集団はそういう人たちよりも平均知能が低いようで、取り仕切っている人と話してもいろんな個別の話が次々に出てくるだけで、ごった煮っぽいというか、全体として何が言いたいのかが見えてこない。この集団からはあることを依頼されているんだけど、依頼の目的がまとまりのあるものに思えなくて具体的にどんなことをして欲しいのかが分からない。関係ないものを間違えて関連づけているっぽくも見えるし、ワーキングメモリ不足で抽象化できてないのかもしれない。とにかく自分たちでできないことが色々あって、何かあるとすぐ自分のところに来る。ググレカスと言いたいけどそのスキルを持っていない。志のある人たちなんだろうけど、こっちは普通IQの集まりにずるずる深入りすると身がもたないので警戒している。向こうはこっちが「普通の人」と関わると消耗することなんて理解できないから向こうの常識でグイグイ引っ張りこもうとするんだけど、こっちはどうやってフェードアウトするかを常に考えている。

アーティストになった私

年上の同僚(普通IQ)に「俺さんってアーティスト気質ですよね。仕事ぶりを見てそう思います」と言われてモヤモヤした。自分のやってる業務は専門的でこそあれアーティスト要素はゼロなんだけど。なんでそんな話が出てくるのか分からなすぎて悩んでしまったんだけど、前に一緒に昼食をとったときは、この人はこっちのやってることをそんなに知らないどころか、みんな同じような難易度の業務を与えられていると思ってるらしかったのを思い出した。その時は仕事の悩みをお互いに話していて、向こうからはあまり理解されずに一般常識レベルのアドバイスをされてやっぱりモヤモヤしたんだけど。たぶん、この人はこっちがやっているニッチな仕事の専門性や厳密さが分からずに、こっちがこだわりを持って仕事をしていると思って「アーティスト」と言ったんじゃないだろうか。かかる工数が分からずに無茶な要求をしてくるド素人クライアントにも通じるものがある。

節穴なのか?

何かに対して持続的な強い興味があって、関係のある情報にアクセスできる人は自動的にその道のエキスパートになるものだと思ってたけど、世間の人は興味とその帰結が割とリンクしてないと知って衝撃だった。ていうかそれでエキスパートにならない人が存在できることを知らなかったし、ならない人はそこまでの興味がないんだと思ってた。*1ハマりにハマってその道のいろんな本を読み漁って色々コレクションしたりしてるのに何も知らないとか基本すら押さえてないってちょっと何言ってるかわかんないんだけど。世界知識のアップデートができないとか、情報を蓄積できないとか、本人は気づいてないけど言語理解が不得意とか、何か凹凸のあるタイプなのかもしれないけど。

*1:趣味のコミュニティでもニワカっぽい人からは逃げてるから分からなかった。

溢れ出す性暴力

巷に溢れる有形・無形の性暴力について思ったこと。いつ頃からどんな目的で世界各地で性が後ろめたいものとされるようになったのかは知らないけど、そもそも性は人間の必要装備の1つなわけで、忌み嫌ったり隠したり後ろ指差したりするようなものではない。何が問題なのかというと支配欲求の媒介として性を使うことなわけだから、理想論を言えばむしろ相手をコントロールしたいという欲求や他罰的・八つ当たり的な幼稚さを解体して、精神的な自立を促す方向に持っていくべきなのだろうと思う。そして今の社会では、幼稚な支配欲の入れ物となりファンタジー化したポルノだけは手に入るのに現実の性は隠されがちという状況と、パンツ履いてればOKとばかりに間接的な性暴力が街に溢れていて、何がおかしいのかも分からないくらいに感覚が麻痺している人がとても多い状況が並存している。現実の性はファンタジーバージョンとはもちろん違っていて、それなのに限られた場面でそれについて教わる機会を除けば触れる機会がなくて、現実を知らないままステレオタイプ化した状態で「その時」を迎えてしまう人は結構いるんじゃないか。問題の所在が読めてなくて、目に見える何かが起こったところをつつけばいいという安直さがさらなる性暴力を量産してる気がする。

どこまで教えてあげればいいの

先日自分の下で働いている人たちとのやりとりで起こったこと。指示通りやっていたら必ず一定の条件下に収まる事象があって、自明すぎると思って彼らにはわざわざ伝えていなかった。で、その条件に収まってない(つまり指示通りやってない)個所を見つけたのでそこを指摘したら、「こっちはそんなこと言われていない!ワーワー」とキレられた。

例えるなら、

俺「味噌汁は右側に置いてね」→

部下「分かりました&できました」→

俺「なんで左にあるの」→

部下「左にあっちゃいけないなんて俺さん言わなかったじゃないですか!」→

俺「左にあったら右じゃないでしょ」→

部下「そんなこと言われないと分からないです!当たり前とか言わないでくださいね!ちゃんと指示出してくださいよもう!」→

俺「す、すみません」

みたいな感じ。どこで躓いてるのか分からないしちょっとは考えろよって思うけど、こっちが色々譲歩しないと仕事として成り立たないんだろうな・・・。