multipleminorityidentities’s blog

気づけばアラフォーになっていたギフテッドなゲイの日常

最近の人類長生きしすぎ問題

この投稿を読んだ。一理あるような気もするけど引っかかったところも。

anond.hatelabo.jp

社会って生きたい人が生きていけるために存在しているはずで、構成員を歯車に例えるのはよくあるけど、社会ってたぶん元々「死にたくなければついて来い」的なものだし。構成員が歯車として機能するのって何か特定の目的がある時だと思う。生きたい人が生きていくのを支えるために構成員が相互に歯車として機能するとか、上がトップダウンで面倒を見るための歯車とかいうならそれも分かる。*1

一方で、世の中って死なないことを重視してるだけあって、今は長生きだけはできるようになったけど、生死について自分の自由で選択をすると渋い顔をされる風潮がある。もう何も分からないほど壊れきった人や、無理に生きていても苦しみ続けるしかない人はサクッと死ねないことが多いし、他でも言っている人がいるように、もう生きていることで何の得もしなくなった本人を生かし続けるために悪循環が起こっている。万人の万人に対する闘争から権利を守るために社会が存在するなら「死んでも良ければついて行かない」自由や無理しない自由だって1つのオプションとして保証されるべき。セーフティネットのはずの社会の中で、他者をうまく認識できない人同士で万人の万人に対する闘争を地味にやっちゃってる。むしろ日本ではどちらかというと目的が果たされたのにフォーカスが変わることなくその欲求の残骸だけがずっと今も残っている。

自分は認知症でも末期患者でもないけど難病で苦しんだことがあって、今は普通に暮らしてるけどいつかまた再発するかもしれない。もしあんな地獄の苦しみをまた味わうんだったら安楽死のほうがいいかもしれないと思ってる。長生きさえすればいいなんてのは生きること自体が難しかった時代のもので、今はただ生きればいいのではなくどんな選択をしていくかが大事じゃないかと。

*1:現体制を維持するための歯車っていうんだったらまた話は違ってくるけど。